福住重要伝統的建築物群保存地区・・・②
冷たいコーヒーで一息ついたので散策を再開。篠山街道をしばらく進むと農家群が途切れ、木立が影を作る一帯の奥に立派な鳥居が見えてきました。近づくとこの辺近辺には似つかわしくない立派な神社が。住吉神社と書いてあり早速車を停めてお参りすることに。
住吉神社・・・? 大阪の住之江区にある住吉大社となにか関係が? 由来を示す説明書きには永保元年(1081年)に大阪の住吉大社からの分霊がお祀りされているとのこと。住吉大社は確か海の神様だったと思うのだが、何故この山間に? な〜んて事を考えながらとりあえずお参り。正面から綺麗に写真を撮ろうと考えて色々試してみるものの何故か鳥居の正面からは本殿が収まらない。歪んで見えてしまう。鳥居が歪んでいるのか、本殿が正面に建っていないのか、いっぱい何故?を抱えながらそのまま進む。
それにしても細工が細かい。いつ頃からあるんだろう? 創建されたのは1081年とあったが明智光秀の丹波攻めの際に燃えたのち、篠山城城主松平康信が1662年に本殿を修復したと書いてあったような、なかったような。いずれにしても400年近く歴史のある建物がこんな、っと言ったら失礼かもしれないが、あまり人目につかないような田舎町にひっそりと建っているなんて、やっぱり日本の歴史は奥が深い。歴史好きの訪日外国人にとって400年前は相当な昔で、そんな建造物を直接目にできるって一つのアトラクションじゃないのかな。この場所に限らずこのような物が日本国中に多く点在している中、東京・大阪・京都・奈良・広島の有名な観光地では訪日外国人が大挙して訪れて問題が起こっている昨今、PRの方法次第で分散化し地方も潤うような良作がないもんだろうか。偉そうに言っているが、かくいう私にはそんな旨い話はとんと思いつかずお参りを済ませた。
ふと本殿の横にこれも古そうな書庫が。その周りをウロウロしていると裏には立派な庭があった。直接中には入れなかったので竹垣の上から覗いて写真を撮らせてもらった。
後々調べたところによると、昭和41年(1966年)に昭和を代表する作庭家重森美玲によって造られた枯山水庭園だとのこと。「住之江の庭」と題されたこの庭は白川砂の波紋で小波を、太い曲線で大波を表現しているのだそうです。海神を御祭神としてお祀りしている住吉神社にちなんで造られた庭で兵庫県の指定文化財になっているとのこと。日ごろは非公開だとのこで写真を撮ってよかったのか?
住吉神社のお参りをひとしきり終えて鳥居を潜って出ようとした時、すぐ横に小さな祠を見つけた。覗いてみると可愛らしいお地蔵さんが。
これにも何か由来があるんだろうな〜っと思いながら、これも何かのご縁とお参りしてあとにしました。
さあ帰ろうと思った矢先、国道(372号)の向こう先に何やら大層な石段を見つけました。お寺のようです。ここまで来た駄賃とそこにも向かってみました。
石段はもっと下から長かったのですが構図が良かったので石段上部から写真を撮った。花が咲き誇った石段の上にそのお寺はありました。禅宗の寺とのことでしたが、その境内に白井半兵衛供養等というものが建っており、どんな人なのか解らなかっらのですが説明書きを読んでみることに。『江戸時代の中期、白井半左衛門という庄屋さんが飢饉や火災に備え枕木川の上流から溝を掘って福住の家々の前を流す工事を始た。それを知った大庄屋は上役にも相談せず勝手な事をしたというので、篠山藩へ訴え大庄屋をないがしろにしたと奉行所の判定で半左衛門に死罪を申し渡し、享保16(1731年)年12月25日に打ち首の刑に処せられます。半左衛門がいったとおり、それから17年後、寛延元年(1748年)7月に大火が起こり、福住の町52軒が次々に焼け大騒ぎになり、町の人たちが相談して半左衛門の供養塔を建てその霊を慰めることになりました。』とのこと。偉い人はそこかしこにいるもんだなと何故か頭の中には中島みゆきの「地上の星」が流れてる。
さぁ今度こそ帰ろう。まだまだ日は高く暑い盛りでタオルを汗でぐっしょり濡らせて歩いた甲斐はあったのか。帰りの車のエアコンが恋しい。